日本三大怨霊!崇徳天皇と菅原道真と平将門にまつわる都市伝説

日本三大怨霊崇徳天皇、菅原道真、平将門をご存知だろうか?

平将門と菅原道真は歴史上でも有名だが、崇徳天皇と聞いてどのような人物であったかを知らない方も多いのではないだろうか?

今回は、そんな崇徳天皇、菅原道真、平将門の都市伝説について紹介していこうと思う。

日本三大怨霊:①崇徳天皇

出典:日本語: 藤原為信English: Fujiwara no Tamenobu [Public domain], via Wikimedia Commons

崇徳天皇の生い立ち

崇徳天皇の生い立ちはかなり壮絶であり、一から説明するとかなりの量となるので、以下にわかりやすくまとめてみた。

  • 政治戦略に巻き込まれて、天皇の座を退位させられる。
  • 怒り狂った崇徳天皇が戦をするも、負ける。
  • 罪人扱いを受ける。
  • 反省後、仏教の道に目覚めて戦で命を落とした者達を想い、3年かけて書いた写経を後白河天皇に送るも、返される。
  • 心を込めて書いた写経を返されたことに激怒し、自分の舌を噛み切る。
  • 舌から溢れ出る血を使い、写経に「日本国の大魔縁となり皇を取って民を皇となさん。この経を魔道に回向す」と書き足した。
  • その後、死亡する。

崇徳天皇の怨念

崇徳天皇の死後、天皇家に次々と禍が起こるようになる。

  • 後白河天皇に政治を任されていた重要人物や、仲の良かった人間が死亡する。
  • 延暦寺の僧兵(下級の僧侶であり、武士)が、朝廷に対して強訴(譲らない態度で相手に訴えかけること)をした。
  • 安元の大火災により、平安京の大半が燃える。
  • 平家を滅ぼす為の、鹿ヶ谷の陰謀が起きる。

単なる偶然とは言い切れない程、立て続けに不幸なことが起こり、いよいよ「崇徳天皇の怨霊の仕業ではないか。」という噂が立ち始める。

精神的に追い詰められていた後白河天皇は、崇徳天皇の怨霊を鎮める為、罪人扱いを解いて供養する事にした。

しかし、供養をしても祟りは収まらず、武家が政治に関わるようになり、次第に天皇家は勢力を失っていく。

つまり、崇徳天皇が残した「皇を取って民を皇となさん。」が現実となってしまったのである。

日本三大怨霊:②菅原道真

出典:wikipedia

菅原道真の生い立ち

頭が良く、学者として活躍していた菅原道真。

現在では、学問の神様として京都にある北野天満宮の神様として祀られている。

学問の神様として祀られている菅原道真だが、一方では日本三大怨霊の一人として有名である。

道真は幼いころから大変頭が良く、5歳の頃に和歌を詠むなど、周りからは神童と呼ばれていた。

持ち前の頭の良さと努力を積み重ねて学者となった道真だったが、その才能を妬む人間も多く、天皇に嘘の密告をされて罪人として扱われてしまう。

左遷となった道真は、天皇に面会を求め、自身の身の潔白を証明しようとしたが、面会を拒まれ、無念にも罪人扱いされたまま、亡くなってしまったのだ。

菅原道真の怨霊

道真の死後から5年の月日が流れた頃。

道真を陥れ、左遷させた首謀者の一人、藤原菅根が死亡する。

陰謀を知っていた者達は口々に「道真の怨霊の仕業だ。」と噂するようになった。

それから一年後のこと。

道真を陥れた張本人である藤原時平は既に病気を患っていた。

インドに伝わる薬や祈祷など、ありとあらゆる方法を試したが、一向に病気は良くならず、悪化の一途を辿った。

そして、最後の手段として僧侶であった自身の長男に祈祷をさせることになった。

後日、長男が時平の元へ見舞に行くと、不思議な事が起こった。

寝ている時平の両耳から青い龍が現れて、次の様に語ったと言う。

「無実の罪で左遷された我は、今や神の許しを得て、怨敵に復讐する為にここへ戻って来たのだ。お前の為に息子が祈祷をしているが、無駄なことよ。」

それから間もなくして、時平は亡くなり、その後も次々と時平の子孫を死に追いやっていき、最終的には皇太子の命まで奪ってしまった。

それだけには収まらず、天皇の私的区域に雷を落として大勢の死傷者を出した。

雷に打たれた者達の死に方は、言葉に表せない程むごい様子だったという。

落雷によって怪我を負った天皇も病気にかかり、寝たきりとなってしまった。

その後、時平の次男が僧侶となり道真の怨霊を鎮め、ようやく祟りは収まったのだ。

日本三大怨霊③:平将門

出典:wikipedia

平将門と言えば、平安時代中期の武将で、「平将門の乱」を起こし、その後独立国を作ろうとするも、討たれ死亡。京都で晒し首となった首は、胴体を求めて空を飛んだという。

平将門にまつわる都市伝説

冒頭で触れたように、平将門は茨城県坂東市で合戦途中に額に矢が命中し、死亡した。

獲られた首は、京都の七条河原まで運ばれ、晒し首となった。

しかし、その首は何カ月経過しても腐敗せず、目をカッと見開いたままであった。

歯ぎしりをしているかのように歯を食いしばり、恐ろしい形相で見物人を睨んでいたという。

ある時、晒し首の前を通った藤六左近という歌人が、将門に対して歌を詠むと雷鳴が轟き、地鳴りが始まったという。

そして将門の口が開き「躰つけて一戦させん。俺の胴はどこだ。」(身体を付けて一戦しようではないか。俺の身体はどこにある)と喋った。

その日から何日かの間、同じ言葉を叫び続けていたが、ある時、首が切り離された胴体を求めて飛び上がり、白い光を放ちながら、東の方角へと消えていったという。

晒し首となったのは京都だが、首が飛んで行ってしまったので、京都に平将門の首塚が無いのはこの為だと言われている。

胴体を求めて移動していた首は、力尽き地面に落ちた。

その地として最も有名なのが、東京都千代田区にある首塚である。

ちなみに平将門が探していた胴体は、死亡した地である茨城県坂東市の延命院に埋葬されている。

とても神聖な地である事から、賊に胴体を暴かれないようにする為、この地に胴塚を作ったと言われている。

平将門の怨霊

首塚が建てられることになった経緯も十分に恐ろしいが、本当に恐ろしいのはここからである。

平将門の怨念が強烈である事は十分にわかっていただけたと思うが、その怨念は怨霊へと変わり、現代でも成仏せずに首塚に残っているというのだ。

そして、この地を冒涜し粗末に扱うと、平将門の怨霊により科学では証明できない事故が相次いで起こると言われている。

【大正23年】

関東大震災により、首塚がある千代田区大手町は、辺り一面瓦礫で包まれた。

土地を整理する為、首塚を壊して跡地に大蔵省を建設した。

それ以来、大蔵省の役人が相次いで亡くなり、大蔵大臣をはじめとする14名が亡くなった。

【昭和15年】

年号が変わり、大蔵省の役人が謎の死を遂げた事件から17年後。

今度は落雷による火災で、省舎が燃えて全焼する。

付近の住民からは「首塚を粗末に扱うからこうなった。」という声が上がり、大蔵省は平将門の怨霊を鎮める為、古跡保存碑を建立した。

【昭和20年】

第二次世界大戦により、日本に来た米軍が終戦後に首塚周辺を駐車場にしようと、工事を計画した。

もちろん工事を計画した者は外国人である為、首塚の祟りを知らない。

同年の暮れに着工したが、重機が突然ひっくり返る事故が起こり、死人が出た。

【高度成長期時代】

国が首塚周辺の土地を金融機関に売却し、日本長期信用銀行が建設された。

首塚に面した部署の銀行員が何人も謎の病にかかる自体が発生した。

現在も平将門の首塚の祟りは続いている?

これだけ科学では説明できないような事件が次々起こると、さすがに平将門の祟りは本物だと思ってしまうのも無理はない。

現在では、歴史好きな人やオカルト好きな人の聖地となっている首塚だが、現在でもその祟りが続き、それを恐れる人々も数多く存在するという。

【太田光の首塚ドロップキック事件】

お笑い芸人として有名な爆笑問題の太田光だが、破天荒なキャラクターで問題発言・問題行動を繰り返す事でも有名である。

その妻であり、太田光が所属している事務所の社長である太田光代によると、夫が首塚にドロップキックをしたら、突然仕事が舞い込まなくなり、そこからしばらくの間仕事が来る事はなかったという。

【首塚近くのビルが気を付けていること】

  • 首塚がある方には窓を設置していない。(見下ろしてしまうため)
  • 管理職の人間が首塚にお尻を向けた状態で座らないように、机の配置に考慮している。

これらは単なる噂だが、これに関しては実際に気を付けているビルと、そうでないビルがあるのだという。

そもそも一定多数の人間は“祟り”を信じていないか、知らない人間がいても不思議でない事から、祟りを信じている人間が気を付けている程度であると思われる。

まとめ

人の祟りは一代では終わらず、その後何代も祟り続けるというが、すさまじい怨念である。現代にまで伝わるこの日本三大怨霊。崇徳天皇、菅原道真、平将門の怨霊伝説は、生半可な気持ちでゆかりの地を冒涜したりする者にも影響を与えていると言われている。

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